見上げる男
見上げる男
アライ氏が念願のマイホームを持ったのは三年前のこと。
四十歳を目前にして、
――よし――
と、一大決心。東京郊外に土地を購入した。
今まで暮らしていた都内のアパートに比べると、いくらか交通に不便を感じるところではあるけれど、
――なあに、住めば都さ――
都会の喧騒を離れて身を置くのも悪くなかった。
それから数年後。アライ氏が移り住んだ郊外市は突然にぎやかになり始めた。どうやらベッドタウンとして市内の開発が行われているらしい。
大きな駅が建造され、都心への直通線が開通した。雑木林が切り開かれ、大小の工場が誘致された。工場の周辺には団地が建てられ、市内に人々が流れ込んで来る。市内の中心地には大型のショッピングモールも誕生した。
アライ氏の自宅近隣には、次々と中高層マンション建設予定の立て看板が現れる。
――ずいぶん活気づいてきたな――
と思っている間に、自宅の裏には五階建てのマンションが完成した。
近くで見上げてみると、マンションは思いのほかに高く感じられる。
「やっぱり日当たりが悪くなったみたい。洗濯物がなかなか乾かないの」
先日、妻が愚痴をこぼしていた。
マンションがあまり林立するようならば、日照権の問題も考えなければならないだろう。
生活の利便性は向上したが、アライ氏は時折、それまでの不便ながらも静かな時間を思い出しては、
――いささかわがままかな――
と、苦笑した。
ある日の休日のことだった。アライ氏が朝食前に近所を散歩していると、自宅の裏の五階建てマンションを繁々と仰ぎ見ている男がいた。
――何をしているのだろう――
見るともなく目をやった。
年齢はアライ氏よりも少しばかり上だろうか、後退が進んでいる頭には、だいぶん白髪が目立っていた。
男はマンションを見上げながら、はあと重たい溜め息を吐く。無精髭の生えた横顔に陰気な影が差していた。
「どうかされましたか」
アライ氏は通り過ぎざまに声をかけた。
男は少し驚いた様子で、
「いえ、ちょっと……」
と口ごもり、
「こんなものができたんですね」
またマンションを見上げた。
「ここ最近です。市内の開発が進んでいるみたいですよ。私が越して来たばかりの頃は、ここら一帯は雑木林でしたから」
「そうらしいですね」
「いつの間にかにぎやかになっちゃって。時々、緑のあった景色が懐かしくなりますよ」
「まだこれからも、こんなマンションが建つんでしょうかね」
「おそらくはね。先週だったかな? もう少し駅に行った空き地には十階建てマンションの工事が始まっていましたよ」
「十階建てですか……」
男は首を垂れて、先程よりも深い溜め息をつく。
今度はアライ氏がマンションを見上げた。
「暮らしやすくなるのは結構ですが、うちはこのマンションができてから日当たりが悪くなりましたよ。毎日のように妻がブツブツ文句を言っていましてね」
「はあ」
「何でもかんでも便利になればいいというものじゃないなと思いますよ」
「その……」
男は言葉を切って、
「十階建てのマンションは、いつ完成するんでしょうか」
と、小さな声で尋ねた。
「詳しくは知りませんが、まあ、来月か再来月にはできるんじゃないかな」
と、アライ氏が答えると、
「それならもう少し待つかな」
男は力なく笑い、独りごちた。
「……?」
アライ氏が不思議そうに男の横顔を見つめていると、
「実は……ずいぶん前に勤め先で首を切られましてね。一向に就職先が見つからんのです。妻は家を飛び出してどこかに行ってしまう。生活費に住宅ローン、もうどうにも首が回らなくなっちゃって。いっそ死んでやろうと思っていたところなんです」
男はクククと自嘲する。
「五階建てより、十階建ての方がきっと間違いなく死ねるでしょうね。来月か、それとも再来月か、飛び降りはもう少し待つことにしましたよ」
そう言うと、男はユラユラ揺れる不気味な影を引きずりながらアライ氏の前から消えて行った。
翌日、朝刊の折り込みチラシを見て、アライ氏は昨日の男を思い出した。
――あの男、まだ当分は飛び降りないかもしれんな――
チラシには来年完成予定の二十階建てマンションが売り出されている。
了