日曜待つよの掌編小説

秘湯旅行

秘湯旅行

 

「来週末、温泉に行かないか?」
「ほう」
 駅前通りの馴染みの居酒屋。
 ほろ酔い気分のA氏は、飲み友達のB氏の肩を叩いた。
 A氏は大の旅行好き。決まって、ひと月に一度か二度、まとまった休みを取って旅に出る。国内旅行も国外旅行も行くが、ここ最近は国内の遊覧、とりわけ温泉巡りに熱を上げている。
「温泉か。いいね。それでどこの温泉だ?」
「うん。少しばかり当てがある。知る人ぞ知る秘湯ってやつだな」
 鼻を蠢かしながら、A氏はコップの焼酎をひと息に飲み干した。
「へえー。あんたが温泉場に明るいなんて知らなかったよ」
「うふふ。それだけじゃないんだぜ」
「……?」
 B氏が不思議そうに瞬きすると、A氏はにやけ顔で、
「そこの温泉、混浴で有名なんだ。もしかすると……。なあ、わかるだろう」
 と、声を潜めた。
「うん、うん。混浴か。そいつは楽しみだな」
 刺身をつついていたB氏も、にんまりと相槌を打つ。

「どうだ。行きたくなったろう」
「うむ。行こうじゃないか」
「それじゃあ来週末」
「来週末に」
 上機嫌で秘湯旅行の約束を交わした二人は、夜更けまで杯を重ね合った。

 

 週末の旅行当日。
 二人は朝早くに東京を出立した。
 列車を乗り継ぎ、峠道をバスに揺られて、二人はどんどん山道を深く入って行く。
 A氏の案内でお目当ての温泉地に辿り着いた頃には、周囲の山々を真っ赤に染め上げていた夕日も、そろそろ沈まんとしていた。
 二人は、A氏が予約していた温泉場近くの宿で旅装を解いた。
「ずいぶんと山奥まで来たな」
「例の秘湯は、ここからもう少しばかり山道を登ったところだよ」
「歩いて行くのか?」
「旅館から直通バスが出てるらしい」
 旅館でひと息ついた二人は、程なくして温泉場行きの直通バスに乗り込んだ。
 乗車定員数名のマイクロバスにはA氏とB氏の他に乗客はいない。
 バスは薄暗がりの山道をゆっくりと走って行く。
 十分ほど山林の中を行ったところで、
「あ、見えた」
「どれどれ」
 バスの行く手に、こぢんまりした木造湯屋がちらりと見えた。

 送迎バスの運転手はA氏を振り返り、
「一時間ほどでお迎えに上がります。どうぞごゆっくり」
 と、会釈した。
 湯屋の前でバスを降りた二人は、
「小さいが立派な造りじゃないか」
「うん。これなら温泉の方も期待できるな」
 と、顔を見合わせ頷いた。
 果たせるかな。湯殿は見事な檜造り。浴室中に檜のよい香りが漂っている。
 湯殿の奥には引き戸があり、そこから露天風呂へと出られるらしい。
「おい。露天の方も見てみようじゃないか」
 喜色を浮かべて引き戸を開けたA氏は、
「あっ」
 と、小さな声を漏らした。
「どうしたい?」
 B氏が声をかけてみたが、A氏は何も言わずに手招きを繰り返す。
 呼ばれるままに、B氏も引き戸から外の様子を眺めてみた。

 かすかな月明かりの下、露天風呂から立ち上る白い湯気の中に黒い影が揺れ動いている。
「ほう」
 B氏はごくりと生唾を飲み込んだ。
「もしかしたら……」
 と、息を呑むA氏の頬が火照っているのは夜風に吹かれたからばかりではあるまい。
「驚いたな。出直すか」
「馬鹿言え。混浴温泉なんだ。堂々と入浴すればいい」
「それもそうだ」
 二人は思い切って湯殿の外へ出た。
 湯気に溶け込んだ黒い影は、二人が近づいて来たことに気付いたのか、ゆらりゆらりと大きく振れ動いている。
 雲の切れ間から銀色の半月が顔を覗かせる。露天風呂にさっと風が吹き込んだ。夜風が湯気を散らす。
「何だよォ」
 A氏がひっくり返ったような声を上げた。
 露天風呂の中では、赤ら顔の日本猿が二匹、じっとA氏たちを見つめている。
「女かと思ったら猿じゃねえか」
「ぬか喜びさせやがって」

 二人は、憎たらしそうに二匹の猿を睨み付けた。

 

 湯船の中でA氏たちに目をやっていた二匹の猿は、
 ――混浴だって聞いて来たのになあ。雌猿じゃないのかよお――
 忌々しげにそっぽを向いた。

 

                   


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