日曜待つよの掌編小説

インパールの日

インパールの日

 

 終戦記念日。東京郊外のK霊園。
 澄み渡った青空の下、金田老人は霊園の太平洋戦争戦没墓碑を献花に訪れた。
 戦没墓碑の前に花を手向けると、
「今年も来たぞ」
 金田老人は戦没墓碑に刻まれた石川長治の名前を懐かしげに眺めた。
 霊園の空を飛行機が白い雲を引いていく。
 飛行機雲を見上げた金田老人は、
「もう五十年か」
 と、ぽつりと呟いた。

 

 金田老人が今は亡き戦友の石川長治と出会ったのは、太平洋戦争の最中のことである。
 1941年、日本軍の真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争において、若かりし金田青年は赤紙召集を受け、ビルマ戦線に出征した。
 開戦後まもなくビルマ攻略戦に勝利した日本軍は、連合国から大陸への補給路を叩くべくインド北東部のインパールに侵攻した。
 このインパール作戦の中で、金田青年は石川長治と同じ部隊に配属され、ともに戦地の苦しみを分かち合った。
 大工棟梁の次男に生まれ、せっかちな性質の金田青年に比べ、片田舎の酪農家に育った石川は生真面目だが、どこかのんびりした性格の男だった。
 金田青年と石川は対照的な気質の持ち主だったが、同じ部隊のよしみだろうか、不思議とすぐに意気投合し、隊内でも一番の戦友同士となった。
「俺は大工の息子だから国に帰ったら、きっと棟梁になってやる」
「僕はここから戻ったら自家製チーズの工場を建ててやるつもりだ」
「それなら俺がお前の工場を建ててやるぞ」
「うむ。きっと約束だ」
 哨戒任務の夜。日本から遠く南方の星空を仰ぎながら夢を語り合ったことは忘れない。
 1944年にインパール作戦が開始されると、日本軍はインド国民軍を含めたおよそ三個師団の兵力を投入し、多方面からのインパール攻略を目論んだ。
 作戦には兵員のみならず軍馬を始め、水牛、羊、山羊など多数の家畜が動員された。
 家畜は物資輸送に使われたほか、必要に応じ食糧として転用することも考えられていた。
 金田青年の部隊は、こうした家畜によって編成された輸送部隊のひとつであった。
 金田青年は、どうしても現地徴用した家畜に慣れることができなかったのだが、石川の方は、さすがに酪農を生業としていただけあり、手慣れた様子で家畜の面倒を見ていた。

 分隊長なども、
「家畜どもは石川が右と言えば右に、左と言えば左に進軍する」
 と、頼もしげに石川の肩を叩いていた。
 インパール作戦開始後まもなく日本軍の攻勢は続いたが、物資不足の中、司令部から十分な補給を受けることができない前線部隊は、連合軍の前に戦力を疲弊させるばかりだった。
 金田青年の輸送部隊もまた、ジャングル地帯の作戦困難に加え、牛馬を連れての行軍は敵航空部隊の格好の的となり、多くの兵員を失うこととなった。
 ひと月、ふた月と前線を維持していた日本軍も、物資の枯渇、連合軍の激しい反攻にインパール作戦を中止、退却戦が開始された。
 退却戦においても、日本軍は飢餓と渇き、マラリアなどの伝染病に苦しめられる中を連合軍の攻撃にさらされ、戦死者や戦病死者が相次いだ。
 金田青年の部隊も例外なく悪条件下の退却戦を余儀なくされた。
「もう牛だろうが山羊だろうが足手まといになるだけだ」
「食えるもんは食っちまった方がいい」
 と、隊内から家畜の食糧転用の声が上がり始めたが、
「駄目だ。徴用してきた家畜は、みんな元の農家に返してやらないとかわいそうだ」
 と、ただひとり、石川だけが反対した。
 金田青年も石川の説得を試みたが、彼は頑として首を縦に振らなかった。
「無理やり戦地に連れてこられた上に、食われちまうなんてあんまりだ」
 石川は家畜の食糧転用を改めるよう分隊長に掛け合ったが、

「馬鹿を言うな。もともとそのために徴用したのだ。我々の体力も限界だ。明日には家畜を食用処理する」
 と、大声で怒鳴られ殴り飛ばされた。
「戦時中だ。かわいそうだが仕方ない」
 その日の夜。金田青年は、水牛の傍にたたずむ石川を慰めた。
「こいつらだって飼い主のところに帰りたいに決まっている」
「分隊長の命令だ。どうしようもない」
「夜のうちに逃がしちまおう」
「やめろ。また分隊長に殴られるぞ」
 石川は金田青年の忠告に聞く耳を持たず、水牛の拘束首輪を取り外し始めた。
「いい加減にしろ」
 金田青年が石川の腕を力任せに引っ張ったときだった。
「敵襲。敵襲」
 誰かが上ずった声を張り上げた。
 次の瞬間。辺り一面の草木が光ったかと思うと、耳をつんざくような轟音が飛んできた。
「逃げろ」
 金田青年は頭を低くして石川の背中を思い切り叩きつけた。

 空爆されているのか、銃撃されているのかもわからないまま、金田青年は耳を塞ぎながらジャングルの中を無我夢中に走り続けた。
 どこをどう逃げ回ったのか、木々の合間から見える空が白み始めたころ、金田青年は湿原地帯の巨木の根元にうずくまっていた。
 輸送部隊の連中は散り散り逃げ出したらしい。自分のほかに生存者がいるかわからない。
 金田青年は力なく立ち上がり、こそこそと隠れるように周囲の様子を探り回った。
 半日ほど当てもなく歩き続け、金田青年は、石川が逃がさんとしていた水牛を発見した。
 驚いて水牛に駆け寄ると、水牛の陰に隠れるようにして石川が倒れていた。
「おい。負傷か」
「金田。足をやられた」
 金田青年が石川を助け起こすと、石川の右足首から下がない。
「なんだ、こんな怪我なんか」
「うん。うん」
 応急処置を施す中、金田の声を聞き安心したのか、石川は涙を滲ませなんども頷いた。
 あれだけいた部隊の連中も、徴用してきた家畜も、誰ひとりとして見当たらなかった。
「すぐにほかの部隊と合流できる」
 金田青年は負傷した石川を水牛の背に乗せると、残存部隊を探して歩き始めた。
「この水牛しか助けられなかった」

「一番お前に懐いていたやつだ」
「こいつだけはなんとしても飼い主に返してやりたい」
 水牛の背中の上で、石川は呻くようにして呟いた。農家に生まれた石川にとって、家畜は家族同然に大切なものだったのだろう。
 金田青年は今更ながらに石川の意志の強さに感心した。
 それから一週間近く、金田青年は残存部隊を求めてジャングルを彷徨ったが、敗走する日本軍を見つけることはできなかった。
 水牛の背にもたれた石川は、額に脂汗を浮かべて低く唸っている。
 傷口からよくないものが入ったらしい。石川はマラリアに感染したようで、日に日に容態は衰弱している。
「頑張れ。頑張れ」
 と、檄を飛ばしていた金田青年もまた心身の限界を悟り始めていた。
 翌日の夜には、ついに金田青年が高熱を発し倒れ込んでしまった。
 石川の具合はいよいよ悪化する一方で、幻覚でも見えているのか、
「逃げろ、逃げろ」
 と、ときおり繰り返し呟いていた。
 金田青年は、どうにか水牛から石川を降ろしてやると、傍らの草地に体を横たえさせた。
「石川。すまん。もう駄目だ」
「あの水牛だけでも……」

 金田青年は朦朧とする意識の中で、水牛の尻を二度、引っ叩いた。
 水牛は弱々しくオオーと鳴き声を上げると、よろよろとジャングルの奥地に消えていった。
 水牛を見送った金田青年は、石川の隣に寝そべると、肌身離さず持っていた守り札を握りしめ、ゆっくりと家族の顔を思い浮かべた。
「石川よ……」
 目を閉じる前に石川に声を掛けたが、石川はなにも応えなかった。

 

 次に目が覚めたとき、金田青年は粗末な木造ベッドの上に寝かされていた。
 浅黒い男たちが心配そうな面持ちで金田青年を覗き込んでいた。
 金田青年は体を起こそうとしたが、まるで力が入らない。
 なにごとかを早口で話し合っている男たちに向けて口を開いた。
「俺はどうしたんだ?」
 金田青年の質問に、一番背の高い男が答えたが、まるで会話にならなかった。
 しかし、どうやら現地のビルマ人たちに命を救われたらしいことは想像できた。

 

 金田老人は戦中の思い出を振り返り、もう一度、戦没墓碑に視線を移した。
 あの日。石川が助けた水牛は、驚いたことに飼い主を連れて戻って来たのだった。
 金田老人は、寸でのところでビルマ人に助けられ、復員することができたのである。
 しかし、水牛を助けた石川本人はマラリア熱のために命を落とした。
「お前がいなかったら」
 自分も戦病死していたに違いない。
 金田老人は復員後に猛勉強を重ね、建設会社を設立した。営業は順風満帆。社員たちは毎日仕事に追われている。
 石川長治は戦死したが、彼の夢は甥が引き継いだ。石川印の乳製品は、今や日本で知らぬ者はないほどの有名ブランドである。
「また来るよ」
 金田老人は脱帽して深々と頭を下げた。
 明日から金田建設は石川乳製品の新工場建設を依頼されている。

 

                   


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