日曜待つよの掌編小説

コックローチ・ハウス

コックローチ・ハウス

 

 夕食時。
 リビングルームのタムラ氏が缶ビールを飲もうとすると、
「キャッ」
 キッチンから妻の悲鳴が聞こえて来た。
「どうした?」
 タムラ氏が慌ててキッチンに駆けつけてみると、シンクを指差した妻がわなわなと体を震わせている。
「あれ……」
 タムラ氏は妻の指先に目を走らせる。
 シンクの中、三角コーナーの隅で黒いものが蠢いた。
「あっ。ゴキブリ」
「早く。やっつけて。早く」
 てかてかした褐色の体を三角コーナーに潜り込ませ、ゴキブリは今にもシンクから逃げ出さんとしている。
「確か殺虫スプレーがあったろう」
「スプレーでも何でもいいから早く退治して」
 殺虫スプレーを手にしたタムラ氏がキッチンに戻って来た時には、ゴキブリは三角コーナーから姿を消していた。
「どこに行った?」

「冷蔵庫の裏側かしら。素早く動いたから、よくわからないわ」
 妻は溜息交じりに首を左右に振った。
「逃げられたか。厄介だな」
 タムラ氏は冷蔵庫の辺りに見当をつけて殺虫スプレーをまいてみたが、どうにも手応えがない。ゴキブリは、すっかり行方をくらませたらしい。
「まだ新築なのに……」
 と、タムラ氏は腹立たしそうに呟いた。
 マイ・ホームを新築したのはちょうど一年前のこと。
 タムラ氏が妻と結婚して五年。それまでは郊外のベッド・タウンに団地住まいだった。
 三十代も半ばを過ぎ、とんとん拍子というわけではなかったが、タムラ氏は順調に出世を重ねている。社内においても重要な仕事を任せられる機会が多くなった。
 責任ある立場に就くに伴い、タムラ氏の給金も相当額に増えて来る。
 ――もうぼつぼつ――
 頭の中に新築住宅のことが浮かび始める。
妻と二人、老後のことを考えるのは余りに早計だが、これから先、子供だって欲しい。
 それを思うと、団地住まいでは不便になるだろう。
 やはりどうしても、
 ――一戸建てが欲しい――

 と、一年前に住宅ローンを組み、マイ・ホームを購入したのである。
 住宅ローンの返済は決して容易ではない。
 タムラ氏は、今まで以上に仕事に精を出し、残業だって進んで引き受けた。
 少しでも節約に結び付けばと、煙草も吸わないよう我慢している。
「あなたばかりに頑張ってもらうんじゃ、何だか悪いわ」
 と、妻はパート・タイムで働き始めた。
 夫婦で苦労を分かち合い、ようやく手に入れたマイ・ホーム。それだのにゴキブリが巣くっているなんて……。
 ――きっと駆除してやる――
 殺虫スプレーに代わり、タムラ氏はホーム・センターから粘着式のゴキブリ駆除シートを買って来た。
 ――これでどうだ――
 ゴキブリが駆除シートに足を踏み入れたら最後、シートの粘着剤はゴキブリを逃がしはしない。
 駆除シートは、家宅をデザインされた容器の中に敷かれており、ゴキブリをおびき寄せるための誘引香料が用意されている。
「そら、立派な一軒家だぞ」
 早速、タムラ氏は駆除シートを冷蔵庫の裏側に設置した。
 冷蔵庫の陰にちょこなんと設置された駆除シートは、まるでゴキブリの家が建てられたかのように思われた。

 

 それから数日後。
 仕事から帰宅したタムラ氏は、そわそわした様子で駆除シートの成果を確かめる。
 新築のゴキブリ・ハウスには、誘引香料に引き寄せられたのであろう、一匹のゴキブリが粘着剤の上でもがいていた。
 タムラ氏は、薄ら笑いを浮かべながらゴキブリ・ハウスを摘み上げる。
「苦労もしないで新築のマイ・ホームが手に入ると思うなよ。おいしい話には必ず落とし穴があるんだぜ」
 タムラ氏は駆除シートごとゴキブリをゴミ箱に放り込んだ。
 ――そうさ。苦労もしないで……
 タムラ氏が借り入れた住宅ローンの返済は、まだたっぷりと二十年以上も残っている。

 

                   


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