日曜待つよの掌編小説

歌舞伎見物

歌舞伎見物

 

 祝日の朝早く。
 冬子は玄関で父を呼び止めた。
「お父さん、まだ早いわ」
「そんなことあるもんか。こういうことは早い方がいいんだ。子供のうちから日本文化に触れておかなくちゃ」
 父は、いそいそと靴を履き始めている。
「でも、太郎はまだ小学生になったばかりなのよ。歌舞伎なんてわかりっこないわ」
「大丈夫。大丈夫」
 と、一向に冬子の反論を取り合わない。
「太郎や、出かけるよ」
「はーい」
 溺愛する孫息子の名前を呼ぶと、威勢のよい返事とともに、お気に入りの青いポシェットを提げた太郎が走って来る。
「おじいちゃん、今日はどこに行くの?」
「今日は、じいじが歌舞伎見物に連れて行ってあげるからな」
「うん」
 大のおじいちゃん子の太郎は、祖父との外出が楽しみなのだろう、歌舞伎見物の意味もわからないまま満面の笑顔を咲かせている。
「それじゃあ、冬子、行って来るぞ」

「もう仕方ないわね。夕食までには帰って来てちょうだい。太郎、おじいちゃんの言うことをよく聞くのよ」
「はーい」
 太郎は冬子の注意に手を振って応えると、敬愛する祖父の後を追いかけた。

 

 歌舞伎公演が催される国立劇場までは電車に揺られておよそ一時間半。
 昼時より少し早く東京にやって来た太郎たちは、東京見物を交えながら昼食を済ませ、歌舞伎公演の開場時間を待つことにした。
 国立劇場までの道すがら、
「僕、あれが食べたい」
 と、太郎は好物のクリームパンをねだった。
「よしよし、じいじが買ってあげような」
 可愛い孫息子の喜ぶ顔見たさに、祖父は大通りの老舗食品店から菓子パンの詰め合わせを買って来た。
「甘くておいしいよ」
 菓子パンの紙袋を大事に抱えながら、太郎は口いっぱいにクリームパンを頬張っている。
「そうか、そうか」
 祖父は満足げな太郎の様子に破顔一笑した。
 ゆっくりと東京見物を終えた二人が国立劇場に入館したのは開場時間を少しばかり過ぎてからのことだった。
「人がいっぱいだね」
 大入り満員の劇場内を見渡し、太郎は呟くように感嘆した。
「今日の公演は人気の勧進帳だからねえ」
「……?」

「難しいことは考えなくてもいいからね。歌舞伎がどんなものか見るだけでいいんだよ」
 祖父は、小首をかしげる太郎の頭を優しく撫でてやった。
「さあもうすぐ始まるよ。じいじの後についておいで」
 祖父は太郎の手を取り、薄暗い客席の中へと分け入った。
 観客席に腰かけた人々は、今や遅しと開演を待ちわびている。
 本日の演目は市川團十郎の勧進帳。
 源義経、武蔵坊弁慶一行の逃亡劇を演じた歌舞伎十八番のひとつである。
 山伏に扮して奥州へと逃亡を図った義経一行は、途中、安宅の関守を務める富樫左衛門に正体を見抜かれ足止めされる。
 富樫からの嫌疑を晴らすために、弁慶は東大寺再建の勧進を主張し、あたかも本物の勧進帳を持っているかのように一本の巻物を読み上げ始める。
 弁慶の機転、関守富樫の人情に窮地を救われた義経一行は、無事、安宅の関所を切り抜けるのである。
 勧進帳は古くから慕われた人気演目で、義経や弁慶たちの見得を始め、弁慶による勧進帳の読み上げ、富樫との山伏問答、そして義経を追いかける弁慶の飛び六方といった多くの見所がある。
 勧進帳の幕が開くと、それまで場内をきょろきょろしていた太郎は、歌舞伎役者の演技、派手やかな衣装や舞台装置に釘付けになった。
 物語が進み、見所がやって来るたびに、
「うわあ」
 と、目を輝かせ勧進帳に魅了された。
「どうだい、すごいだろう」

「うん」
 太郎の歓声に、
 ――連れて来てよかった――
 祖父は顔を綻ばせた。
 物語も終盤に差しかかり、舞台の上では市川團十郎演じる武蔵坊弁慶が、いよいよ飛び六方を前にして美しい見得を切っている。
「ナリタヤッ!」
「ナリタヤアッ!」
 突然、太郎の真後ろから大声が飛んで来た。
 驚いた太郎が耳を塞ぐと、
「ナリタヤッ!」
 と、隣の祖父も舞台に向かって声を張り上げている。
「おじいちゃん、なにしてるの?」
 太郎は祖父の上着を引っ張った。
「歌舞伎役者の屋号を呼んでいるんだよ。歌舞伎の見せ場でね、役者の屋号を叫ぶんだ」
「屋号?」
「○○屋っていう歌舞伎役者の名前みたいなものなんだよ」

「ふーん」
 客席から、また大きなかけ声が上がる。
 膝上の菓子パンの紙袋をじっと見つめていた太郎は、僕だってと言わんばかりに、祖父を習って、大好きなクリームパンの屋号を叫んだ。
「中村屋!」

 

                   


inserted by FC2 system