日曜待つよの掌編小説

彼の抱擁

彼の抱擁

 

 A商事の昼休み。
 給湯室では春子と秋子、二人のOLが立ち話に花を咲かせている。
「経理課のS子、来月に結婚するんですって」
「聞いたわよ。お相手は営業部の人でしょう」
「そう、そう。営業部の出世頭よ」
「羨ましいわね」
 紙コップの薄いコーヒーをすすりながら、春子は静かに呟いた。
「あたしも早くいい人を見つけたいわ」
「秋子にはKさんがいるじゃない」
「Kさんは……結婚って柄じゃないわ。ただのボーイフレンドよ」
 秋子は遠くを見つめながら口を尖らせた。
 交際中の彼氏は真剣に結婚を考えるほどの相手ではないらしい。
「春子は? 気になる人くらいはいるんでしょう?」
 紙コップをゴミ箱に投げ入れ、秋子が振り返った。
「そうね……。私は海外事業部の朝倉さんが素敵だと思う」
 春子はわずかに頬を染めて答えた。

 海外事業部に勤務する朝倉洋介は、三年前に別の商事会社からヘッドハンティングされてA商事にやってきた。
 現在の部署に配属されてからは次々と奇抜な経営案を提出し、いくつもの事業拡大計画を成功させている。
 社内上層部からの信頼も厚く、春子のみならず女性社員たちの憧憬の的だった。
「朝倉さんは駄目よ」
「どうして?」
「お付き合いしてる人があったでしょう」
 秋子はくりくりした目を瞬かせた。
「N美のことかしら? それなら少し前に振られたらしいわよ」
「振られちゃったの?」
「同じ営業部の子たちが噂していたもの」
「知らなかったわあ」
 と、秋子はすっとんきょうな声を上げた。
 朝倉と交際していたN美は、ここしばらく無断欠勤を続けているらしい。
 春子が友人から聞いたところによれば、交際の破局から立ち直れないのではないかとのことだった。
「よっぽどショックだったんじゃない」
「きっとそうね。N美ってば、朝倉さんとのこと、ずいぶん周りに言いふらしていたから」

 振られたのが恥ずかしいもんだから会社に顔が出せないんだわ、と秋子は独りで納得しながら考えを巡らせているようだった。
 春子の方も、N美には気の毒だが、
 ――朝倉さんとじゃ釣り合わないもの――
 と、二人の破局は当然のように思われた。
 自分こそが朝倉の恋人にふさわしいと思い上がるわけではないが、それでも、
 ――N美よりは上だわ――
 と、春子にはいくらかの自負があった。
「朝倉さんにアプローチしてみようかしら」
 N美にチャンスがあったのだから、自分にだって朝倉と恋仲になれる機会があるのではないか。春子は自分自身を鼓舞するように独りごちた。
「春子、どうかしたの?」
 秋子は不思議そうな面持ちで春子の顔を覗き込んでいる。
「私、朝倉さんにアプローチしてみるわ」
「本当に? 頑張って、春子ならきっと大丈夫よ。あたし、応援するわ」
「うん。ありがとう」
 秋子の激励に、春子は力強く頷いた。

 

 それから数週間後のこと。
 春子のもとにまたとない機会が巡ってきた。
 朝倉の所属する海外事業部が大規模な経営企画を立ち上げ、春子は、その企画会議の資料作成を手伝うことになったのである。
 企画会議の進行には朝倉が抜擢された。春子は、少しでも朝倉の目に留まるよう精一杯仕事をこなした。
 朝倉の進行役に加えて春子の頑張りも実を結び、企画会議は大成功に終わった。
 殊に春子の作成した会議資料は、海外事業部上層に大変好評だった。
「春子さん、会議資料ありがとう。とてもよくまとめられていたって役員の方々も褒めていたよ」
「ありがとうございます。その、無我夢中に作ったものだったから……」
「謙遜だね。僕もよくできていたと思う。おかげで滞りなく会議を進行できたよ」
 企画会議の後、朝倉は春子を呼び止め資料作りの労をねぎらった。
 朝倉の方も、春子の献身的な働きぶりに好感を抱き、彼女を高く評価していたらしい。
「会議の成功を祝って、どうだろう?」
 と、朝倉は春子と二人きり、ささやかな祝賀会を提案した。
「嬉しい。きっとご一緒しますわ」
 春子は二つ返事で誘いを受けると、
 ――私にもチャンスがやってきたんだ――

 と、朝倉に胸中の告白を決意した。

 

 祝賀会の夜から数週間後。
 春子は、会社からほど近いレストランで秋子と昼食をとった。
「朝倉さんとはうまくいってるの?」
「秋子ったら、またその話なの。交際は順調よ。彼、思ったとおり、すごく紳士なのよ」
 春子は少し大げさにのろけて見せた。
 祝賀会の晩餐席で春子の告白を受けた朝倉は、彼女の両手を優しく握り、微笑みをもって求愛に応えてくれた。
 朝倉との交際を秋子に報告すると、
「やったじゃない。春子と朝倉さんならお似合いよ。おめでとう」
 と、まるで自分のことのように喜んだ。
「春子のおのろけは、もうお腹一杯。早くゴールインしちゃいなさいよ」
「結婚は考えているけれど、まだ早くないかしら? 私だけじゃ決められないわ」
「そんなこと言ってるとN美みたいに振られちゃうかもしれないわよ」
「彼に限ってそんなことないんだから」
 春子は頬を膨らませた。
「軽い冗談よ。でも、ほら、男はなんとかって言うでしょう」
 と、秋子はいたずらっ子のように笑いながら、ひと昔前のメロディーを口ずさむ。

「うふふ。そうかもしれないわね。今夜、彼と食事するの。結婚のことも話してみるわ」
「しっかりね」
 秋子はそれだけアドバイスを述べると、手を挙げてウェートレスを呼んだ。

 

 その日の夜。
 春子はシティホテルで朝倉と待ち合わせた。
 ホテル内のレストランで夕食を食べ、二人は屋上階の展望ラウンジに立ち寄ってカクテルを楽しんだ。
「今夜は部屋を取ってあるから」
 朝倉に肩を抱き寄せられ、春子は上気した顔を彼の胸元に預けた。
 朝倉に腕をからませ、予約した部屋に入ったところで、春子は背後から抱きしめられた。
「こんなところじゃ嫌よ。それに明かりも消して……」
 後ろ手にスイッチを押して電灯を消した朝倉は、荒々しい息遣いで春子の体をベッドに押し倒した。
「洋介さんたら乱暴なのね」
 朝倉の首筋に両手を回しながら、春子の頭の中に懐かしい流行歌のメロディーが流れた。
 昼間、秋子が口ずさんでいたものが記憶に残っていたのだろう。
 ――狼だっていいじゃない。少しくらい乱暴なところがあった方が魅力的だもの――
 と、春子は体をくねらせる。
 吐息交じりに朝倉の名を呼びながら、春子はベッドの脇のカーテン隙間から夜空を見た。
 暗闇の中に、満月だけが不気味なほどに赤々と光っている。
「N美も素敵だったけれど……」

 朝倉は勢いよく春子の体を抱き寄せた。
 カーテンの切れ間から赤い月光が差し込んだ。一瞬、朝倉の顔が照らし出される。
「あっ」
 春子の目前で毛深い狼が牙を光らせていた。
「君の方がずっと美味そうだ」
 狼は頭から春子を飲み込んで……。
                   


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