理髪店
理髪店
「また伸びてきたんじゃない?」
と、妻は、ソファの上にゴロリと体を横たえているS氏の襟足を触れた。
「ウーン、そうかなあ」
「そうよ。前に散髪したの、いつ頃?」
「エー……」
S氏は欠伸を一つ、面倒くさそうに一週間前、二週間前と指折り数える。
「三か月前くらいか」
「ほら、やっぱり。そろそろ床屋に行った方がいいわよ」
「わかった、わかった。行ってくる」
妻の小言に追い立てられるように、S氏はソファから起き上がり、サイドボードの財布を手にした。
S氏が行き付ける理髪店は、自宅からほど近い商店街通りの一店舗。六十を超えた店主が鋏を握っているのだが、腕前がよいと評判の理髪店で、S氏も、もうかれこれ五年以上は通い続けている。
自宅を後にしたS氏が理髪店のドアを押してみると、
「いらっしゃい」
と、新聞を覗き込んでいた店主は、短く刈り込んだ白髪頭をヒョイと持ち上げた。
「頼めるかな?」
「もちろんですよ。さあ、こっちのイスに」
「それじゃあ」
S氏は店主に勧められるまま、磨きこまれた大きな鏡の前のイスに腰を下ろした。
「旦那、久しぶりですね」
「女房がね、髪を切ってこいってうるさく言うからさ」
「ハハハ。旦那、この前いらした時にもおんなじことを言ってましたよ」
「えっ、そうかい?」
「そうです、そうです。覚えてますとも」
「いや、恥ずかしいなあ」
店主はこなれた手付きで、S氏の頭を櫛ですき、散髪の準備に取り掛かる。
「今日はどうしましょう?」
「全体的に短くして、さっぱりと仕上げてもらいたいなあ」
「よござんすとも」
店主は早口でそう言うと、鋏を手に取り、思い切りよくS氏の髪を切り始めた。
ショキン、ショキンと、S氏の耳元で軽快な鋏の音が踊っている。
「いつきても、ここの散髪は気持ちいいねえ」
「本当ですか。そりゃ、嬉しいですよ」
「本当だとも。この辺の床屋じゃ、ここが一番の腕利きだと思うね」
「いやあ、ありがとうございます」
S氏に褒められたのが快かったのか、店主はかすかに鼻歌交じりで鋏を動かしている。
鋏のリズムを聞き入っていたS氏は、やがて、散髪の心地よさからか、いつの間にかウトウトと居眠りを始めてしまった。
「旦那、そろそろお目覚めがいいですよ」
店主の声に、ハッと目を覚ましたS氏が左右を振り返ると、
「旦那、散髪はもうお終いですよ」
店主が笑顔でS氏の肩を揉んでいる。
「すっかり眠ってしまって……」
「ハハハ。ずいぶん気持ちよさそうにしてたもんだから、途中で起こしちゃかわいそうだと思ってね」
苦笑いするS氏の両肩をポンと軽く叩いた店主は、
「お粗末さんでした」
と、頭を下げた。
「どうもありがとう。やっぱりご主人の腕は見事なもんだね。散髪は注文通りで、気持ちよかったし、みんながご主人を贔屓にするのがよくわかるよ」
「そんなに言われると、恥ずかしくなってきますな。なあに、こっちは夢中でやってるだけなんだから」
「ほう?」
S氏に絶賛の言葉を送られて、店主はどうにも舞い上がってしまったらしい。
ついポロリと余計なおしゃべりが……、
「万が一にもお客さんに怪我でもさせてごらんなさい。こっちが無免許で髪切ってるのがバレちまいますよ」
了