日曜待つよの掌編小説

多頭飼育

多頭飼育

 

 S市役所に勤務する典子は動物、とりわけペットに関する苦情、問題を担当している。
 迷子相談からペット病の感染防止指導まで様々な案件に取り組んでいる。
 近年、S市内ではペットの多頭飼育が大きな問題になりつつある。
 劣悪な環境下で飼育限度をはるかに超える多数のペットを放置する多頭飼育者が増加している。
 病的な収集癖から動物たちを集める飼い主は莫大な飼育費用に経済破綻をきたし、生活苦から収集動物を残したまま行方をくらます、あるいは自殺してしまうこともある。
 このようにして取り残されたペットたちは感染病の温床、近隣の悪臭被害など多数の社会問題を引き起こしているのである。
 一昨年前のこと。典子は多頭飼育問題を一件担当した。
 住民の悪臭相談から訪れた市内の一軒家は、近隣で有名な猫屋敷だった。石塀に囲まれた木造の平屋は、あちらこちらに老朽化が見受けられ、家屋の中では十匹以上の猫が放し飼いにされていた。
「こんにちは。S市役所です」
 玄関の引き戸を開けた典子は思わず両手で鼻を覆った・異臭が鼻を衝く。
 ――ひどい――
 玄関から居間に通じる廊下は猫の糞尿ですっかり痛んでしまっている。
「ごめんください」
 典子は作業靴に履き替え、居間を覗き込んだ。居室の中には小さなちゃぶ台とテレビが置かれており、ちゃぶ台の上では三匹の猫が丸くなっている。その足元では二匹の猫が爪をといでいた。見れば、ちゃぶ台にも、部屋の畳にも無数の爪痕が付けられている。
「ごめんください」
 典子が何度声を上げても、家の中から返事のある気配はない。

 ――困ったわ――
 悪臭に耐えながら家中を探し回ったが姿を見るのは猫ばかり。どうやら相当数の野良猫も入り込んできているらしい。
 台所をうろつく猫を追い払っていた典子は、食器戸棚の中に大量のキャットフードと書置きを見つけた。
 キャットフードは飼い主が買い置きしたものだろう。書置きには一言、
「猫を頼みます」
 とだけ残されていた。
 後でわかったことだが、猫屋敷の住人は天涯孤独の老婆で、寂しさを紛らわせるために猫を飼い始めたところ、一匹、二匹と数が増え、いつしか依存症的に猫を収集するようになっていたようである。
 老婆には増え続ける猫を飼育できるだけの経済的な余裕はなく、数週間前から行方をくらませていた。
 幸い、この飼い主不在の猫たちは、典子の働きかけにより動物愛護団体や里親ボランティアに引き取られることとなった。
 猫屋敷の一件から、典子は自治体やボランティアを通じて定数以上のペットを飼育する多頭飼育者の把握に力を注ぐようになった。

 

 つい先日のことである。典子のもとに苦情相談の電話が寄せられた。
「近所の家からひどい臭いがしてくる」
 と、悪臭を訴えるものだった。
 電話主によれば、二、三日前から近くの一軒家周辺に腐臭が漂っていたらしい。それが今日になって一段と悪臭が強くなっているとのことだった。
「一度、訪問調査に向かいますので」
 と、手早く調査準備を整える典子の脳裏に猫屋敷の光景が蘇る。
 飼い主の依存症から収集された猫たちは、どこか物悲しそうな鳴き声を上げていた。
 ――猫の方がよっぽど被害者だわ――
 動物愛護団体に連れ出されていく猫の姿は忘れることができない。
「飼育崩壊じゃなければいいけど」
 典子は不安を胸に市役所を後にした。
 苦情電話があった住所までは車でおよそ三十分。市内でも人通りの少ない静かな住宅地だった。
 問題の家の前で車を降りると、
 ――あっ――
 ツンと腐臭が鼻を刺す。
 木造二階建ての一軒家。築数十年といったところ。玄関口の郵便受けにはチラシが差し込まれたままになっている。

「ごめんください」
 呼び鈴を鳴らしても、声をかけてみても人が出てくる様子はない。玄関には鍵がかけられている。
 典子が家の中をうかがうように周囲を回ってみると勝手口の方は施錠されていない。
「S市役所です」
 勝手口を開けてみると、いよいよ臭気が強くなる。
 ――いけない――
 マスクを通しても臭いを感じた。獣臭ではなく死臭に近い。家屋の中でペットの腐敗が始まっているに違いない。
「失礼します」
 一言、大声で断ると、典子は勝手口から上がり込んだ。台所、居間、客間と順繰りに調べてみたが、家主の姿も、多頭飼育の形跡も見当たらない。
 ――上かしら――
 玄関脇の階段から二階を見上げる。腐臭は二階から漂ってきているように思われた。
 階段を軋ませながら二階に上がると、果たして突き当りの部屋が半開きになっている。
「ここだわ」
 作業手袋をしてドアを開ける。
「あっ」
 典子の口から微かな悲鳴が漏れた。

 いくつもの腐乱死体を前に全身がわななく。
 恐らくは、この家の住人も心的不安を満たすために異常な執着心と収集癖を発揮していたのだろう。
 猫屋敷の家主が猫に充足を求めていたように、ここでは乳児が心のよりどころとなっていたらしい。

 

                   


inserted by FC2 system