夏の雲
夏の雲
「暑いな……」
ぎらぎらと太陽が照り付ける田舎道。
ハンカチで額の汗を拭いながら、オカノ氏は忌々しげに独り言ちた。
道のすぐ脇には雑木林が続いており、耳をつんざかんばかりの蝉の鳴き声が、ひと際蒸し暑さを感じさせる。
オカノ氏は三十代半ばの保険会社の営業マン。今日は朝早くから営業担当のN町までやって来た。
町中を回って新しい保険商品を勧誘していたのだが、未だ一件の契約も取れていない。
――駄目だな――
気が付けば、太陽はすっかり頭の真上まで昇っている。
――ひと息入れるかな――
冷たい飲み物で喉を潤わせたかった。
繁華街まではバスに乗って十五分くらいだろう。大通りまで行けば、喫茶店が見つかるに違いない。
オカノ氏は汗をかきかき、バス停を目指し始めた。
炎天下を十分ほど歩いたところで、オカノ氏の前方から仲良く手をつないだ母子がやって来た。
麦わら帽子を被った男の子は青空を指さしながら、しきりに母親に話しかけている。
すれ違いにオカノ氏の耳に母子の会話が飛び込んで来た。
「ほら。あの雲。ソフトクリームみたいだよ」
「本当ね」
「あっちの雲は、かき氷そっくりだ」
男の子は空に漂う白い雲を食べものに例えて遊んでいるらしい。
――ソフトクリームか――
ふとオカノ氏は子供の時分を思い出した。
小学生の頃。母と東京のデパートに買い物に行った。プラモデルをねだったが買ってもらえず、その代わりにソフトクリームを買ってくれた。
――あれは美味かったな――
オカノ氏は、あの日のソフトクリームの美味を思い起こして空を仰いだ。
男の子の言う通り、抜けるような青空にはソフトクリームの形をした雲がゆっくりと流れている。
――ソフトクリームも悪くない――
この蒸し暑さをいっぺんに吹き飛ばしてくれることだろう。
ソフトクリームの雲を目で追いながら、オカノ氏はそう思った。
正午をいくらか過ぎてから、オカノ氏は停留所に歩き着いた。
錆びついた時刻表があるばかりの粗末な停留所。田舎町のことだから、バスは一時間に一、二本しか運行していない。
時刻表を見て、
――参ったな――
オカノ氏はうな垂れた。
昼時のバスはつい先ほど出発している。次が出るまでには、たっぷりと一時間は待たなくてはならない。
「待合所くらいあってもいいじゃないか」
手提げ鞄を停留所の足元に放り、オカノ氏は悪態を吐いた。
ため息交じりに空を見る。先ほどのソフトクリームは、もう遠くに消えてしまったのか、姿形はどこにも見当たらない。
――おや――
一つ、ぽっかりと浮かぶ雲が、オカノ氏の目を引いた。
「似てるな」
思わず声が漏れた。
また子供の頃の思い出が脳裏をよぎる。
初めて映画館で見た特撮映画。雲は映画に出ていた怪獣によく似ている。
劇中で大暴れする怪獣は、子供心に恐ろしいものだった。
もちろん、怪獣は着ぐるみで役者が中に入っていたのだが、大きなスクリーンに迫力ある音響が怪獣のリアリティを演出していた。
怪獣そっくりの白雲は、あんぐりと口を開いているように見える。
――そう、そう――
映画のワンシーン。怪獣が逃げ惑う人々を次々に食べてしまう。車ごと、あるいは電車ごと。あまりのおぞましさにスクリーンを直視することができなかった。
今、考えれば、
――少し滑稽だったな――
と、小さく笑った。
――うん……――
オカノ氏は目を瞬いた。錯覚だろうか。怪獣の雲が数瞬前より巨大に、近づいて来たように感じる。
――気のせいかな――
暑い中を歩いて来た疲労かもしれない。オカノ氏は目を凝らす。
――違うぞ――
白雲の怪獣は見る間に、どんどん体積を増して膨れ上がっていく。
大きな口がオカノ氏を目掛けて迫って来る。
まるで特撮映画を見ているよう。
――あつ。食べられる――
オカノ氏はぐっと目をつむった。
陽炎に揺れながらバスは定刻通りに停留所までやって来た。
赤茶けた時刻表の足元には、忘れられてしまったように手提げ鞄だけが残されている。
了