健一の憂鬱
健一の憂鬱
深夜のアルバイトを終えた健一は、近くの惣菜屋で夜食の弁当を買い、帰路に就いた。
自宅の安アパートまで自転車でおよそ十分。
頬を切る夜風が冷たい。健一はジャンパーに首筋をうずめて体を震わせた。
自転車のライトを頼りに、通りの角を一つ曲がり、二つ曲がり、道幅の狭い十字路を抜けるとアパートが見えて来る。
築十数年の古いアパートは、クリーム色の外壁がずいぶん黒ずんで変色している。おまけにアパートを囲む塀には、誰の仕業か知れないが、いくつもの落書きがある。
健一は落書きを見るたびに、
――悪い奴らがいるもんだ――
と、腹立たしくなる。
アパートの駐輪所に自転車を止め、錆びた階段を上って、三階の角部屋が健一の部屋になる。
健一が入居した時からアパートにはほとんど住人がおらず、隣近所は空き部屋である。
駅から近い物件にもかかわらず人気がないのは、一つにはアパートの老朽化が挙げられるが、それ以上に近隣の治安の悪さが原因なのだろう。
アパートの周囲は、いずれも人通りが少なく、街灯もないため薄暗い小道ばかりである。
つい先日も、引ったくりと路上痴漢が立て続けに発生している。
――ひどい世の中だよなあ――
回覧板を見て憤慨したことは記憶に新しい。
蝶番の古くなった重いドアを開け、
「ただいま」
と、健一はかすれ声で呟きながら後ろ手に鍵をかける。
真っ暗な部屋の照明は裸電球が一つきり。手探りで電球の紐を探し当て引っ張ってみるが、何度繰り返しても部屋は明るくならない。
どうやら電球が切れてしまったらしい。
仕方なしに、健一はテレビを点けて買い物袋をテーブルに置いた。
テレビ画面から漏れる青白い光が、薄ぼんやりと部屋の中を照らし出す。
健一は、テレビの前の小さなちゃぶ台にどっかり胡坐を組むと、夜食の弁当を頬張り始めた。
テレビでは深夜のトーク・ショーが放送されている。
――この芸能人は好きじゃない――
トーク・ショーのゲストは、健一が毛嫌いする芸能人。箸を止め、テレビのチャンネルを回していく。
他局のニュース番組には、つい先日、民間企業との収賄騒動が報道された大物国会議員のインタビューが流れている。
――何て奴だ。ろくな人間じゃないな――
健一はインタビューの様子を細目に小さく舌打ちした。
収賄議員の次は、ニュースキャスターが沈痛な面持ちで強盗殺人事件の報道原稿を読み上げている。
――ああ。このニュース――
強盗事件のことは健一も知っている。
都内の白昼に起きた強盗事件は、未だに犯人が逮捕されていない。
――物騒だよなあ――
近頃はこんなニュースばかりが目立つ。おちおち街中を歩くこともできやしない。
国政の腐敗に治安の悪化、日本経済の先行きも暗雲が立ち込めている。
――まったく――
この国はどうなってしまうのか。健一の胸の内に、言い知れない不安が込み上げて来る。
どす黒い不安の中を、ふっと頭に一人の女の顔が浮かんだ。
アルバイト先のレンタルビデオショップで知り合った女の子。健一よりも三つ年下の女子学生。色白で、右目の下の泣き黒子が艶めかしい。
映画鑑賞が趣味らしく、決まって週に一度は店にやって来る。
初めは挨拶を交わす程度だったのだが、何度も顔を合わせるうちに、映画の話題を談笑するくらいになっていた。
――素敵な人だな――
と、今では淡い片思いを抱いている。
彼女の笑顔が脳裏に蘇る。
――大丈夫だろうか――
健一は彼女の身を憂慮すると同時に、
――俺が守ってやらなくては――
使命感に駆り立てられる。そうである。
アパート近隣の引ったくりに痴漢犯罪。テレビを通じて、日々訴えられる日本の安全神話崩壊、経済大国からの失墜。
健一が彼女を見守ってやらなければ、どうして彼女が幸せを掴むことができようか。
――俺がやらなければ――
健一は弁当の残りを一口に平らげると、力一杯に握り拳を作り立ち上がった。
健一の決意を煽るかのように、テレビではニュースキャスターが誘拐事件を報じている。
どうやら日本のマスメディアまでもが、すでに堕落しているらしい。
――誘拐だなんて。勘違いも甚だしい――
健一は鼻息を荒くした。
「彼女の幸せのためなのに」
これほどに不浄な社会では、彼女の安息は、唯一、健一の傍にしかあるまい。
テレビの薄明かりを受けながら、健一はゆっくりと背後を振り向いた。
視線の先には、パイプ椅子に縛り付けられた下着姿の女が、右目の泣き黒子に涙を湛えている。
ニュースキャスターの低い声が、誘拐された女子学生の特徴を伝えていた。
女子学生の右目には泣き黒子があるらしい。
了
注 本作品は友人K氏よりアイデアをいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。