日曜待つよの掌編小説

あなたの離婚

あなたの離婚

 

 あなたは四十代半ばの専業主婦。以前は翻訳家として働いていたが、結婚を機に翻訳業から引退した。
 今は都心の一等地に夫と二人きりで暮らしている。
 子供はいない。結婚したばかりの頃は一姫二太郎を望んだけれど、残念ながら子宝に恵まれることはなかった。
「まだ産めるわよ」
 と、主婦友達は言うものの、
 ――もう無理ね――
 あなたは既に出産をあきらめている。
 夫は今を時めく売れっ子ミステリー作家。三日と間を空けずに出版社や新聞社から電話がかかって来る。
 夫の作家デビューは五年前。処女作こそ話題になったが、その後の発表作は歯牙にもかけられなかった。
「駄目だな」
「次は、いいものが書けるわ」
 あなたは失意に沈んだ夫を励まし続けた。
 転機が訪れたのは三年前のこと。
 S出版社が主催するミステリー大賞に夫の著作がノミネートされた。
「すごいわ」
「自分でも信じられん」

 夫と二人、ささやかな祝賀会を開いた。
 それから数週間後、ミステリー大賞の受賞発表が行われ、夫の作品が最優秀賞に輝いた。
「おい、やったぞ」
 あなたは自宅で受賞を知らせる電話を受けた。受話器の向こうから涙ぐんだ夫の声が聞こえて来る。
 まるで自分自身が大賞を受賞したかのように、驚愕と歓喜で、あなたの頭の中は真っ白になってしまった。
 ミステリー大賞の受賞後、それまでと一変して夫のもとには仕事の依頼が殺到した。
 出版社からの原稿依頼。新聞社からの取材願い。テレビ局からは番組出演の交渉も寄せられた。
「ぜひ奥様にも」
 と、あなたにまでテレビ出演の誘いが来た。
「私なんて……」
 元来、あなたは目立ちたがりの性質ではない。テレビの出演も、雑誌の取材もすべて断ってしまった。
 夫の方は、ようやく掴んだチャンスだとばかりに、精力的に各社からの依頼をこなしている。
 ――大丈夫かしら――
 あなたは毎日時間に追われるようになった夫の心身を気にかけていた。
 夫の名前が広く世間に知られるようになって一年が過ぎた頃、あなたは夫との間に小さなすれ違いを感じることが多くなった。
「あなた、今夜は帰って来るの?」

「ホテルに泊まるよ」
「ここ最近、ろくすっぽ家に帰って来ていないじゃない」
「新作の編集会議なんだ。仕方ないだろ」
「でも……」
 夫は新作発表のため忙しいのだろう。家に帰らずホテルで外泊することが増えた。
 少しでも心が休まればと、あなたが腕によりをかけて夕食の用意をしてみても、
「今日は外で済ませるから」
 と、夫は、あなたの気遣いを汲み取ってはくれない。
 このまま夫との溝が深くなってしまうのではないか。あなたは夫がどこか遠くに消えてしまうような一抹の不安を覚えた。
 それから半年後のこと。
 夫は、すっかり押しも押されもせぬ有名作家の仲間入りを果たし、以前と変わらず多忙な日々を過ごしていた。
 あなたは妻として夫の活躍を喜ばしく思う一方で、夫とのすれ違いが、いよいよ決定的なものになって来ていることも感じていた。
 何かにつけて夫の身を案じていたあなたは、
「仕事だから仕方ない」
 と、心遣いを無下にされてしまっては、
 ――何よ――

 馬鹿馬鹿しくなって来る。
 それに加えて、人気作家としてもてはやされるようになり、夫は度々横柄な態度を取るようになった。
 あなたが注意するようなことがあれば、
「有名作家に意見でもあるのか」
 とでも言わんばかりに、夫の鋭い視線が飛んで来る。
 ――好きにすればいいわ――
 と、あなたは夫のやりたいようにやらせていた。

 

 そして、つい先日。
 あなたは夫との離婚を考え始めた。
 夫婦の交流が冷たいものになってしまったことが要因であるが、一番の理由は夫の浮気が判明したことにある。
 夫が、どれほど以前から年若い女と浮気関係にあったのかはわからないが、あなたは、ここしばらくの夫の仕種や物言いの端々に女の匂いを嗅ぎつけることがあった。
 ――おかしい――
 あなたは興信所に依頼して、ひと月の間、夫の素行を調査してもらった。
「こちらが調査結果になります」
「やっぱり……」
 所員から手渡された調査書には、夫の浮気を認める文面とともに、親密な様子で夫と腕をからめる赤いコートの女を写した大判写真が同封されていた。
 夫の浮気を突き止めたあなたは腹立たしさよりも、今まで夫に寄り添っていた自分自身は何だったのだろうかと、言い知れぬ無気力に襲われた。その時、あなたの頭の片隅に離婚の二文字が現れたのだった。

 

 自宅のリビングルーム。
 あなたは掃除機をかける手を休め、ふと柱時計に目をやった。
 時計の針は、間もなく午後三時を知らせようとしている。
 今日は夫の新作発表会である。今頃は、東京のT百貨店で新作を記念したサイン会が開催されているだろう。
 ――私もサインをもらおうかしら――
 あなたは思い出したように書棚の引き出しの奥から離婚届を取り出した。

 

                   


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