日曜待つよの掌編小説

秋の風

秋の風

 

 土曜日の昼下がり。
 リビングルームのソファで、とろとろと居眠りしていた茂は一本の電話に目を覚ました。
「はい」
「もしもし。良子です」
「やあ。どうした?」
「今日、これから、お時間いいかしら? 少しお話ししたいことがあるの」
「うん……?」
「お会いできる?」
「ああ」
「それじゃあ一時間後。銀杏通りのカフェーでお会いしましょう」
「わかった。銀杏通りのカフェーで」
 受話器を置いた茂は小さな溜息を漏らした。
 良子の声色に重苦しいものが感じられた。
 会って楽しくなるような話ではないだろう。
 ――別れ話か――
 サイドボードの電話を前に、茂は、ふとそんなことを考えた。

 

 良子と出会ったのはおよそ二年前。秋分を過ぎて十月の初め。駅前の銀杏通りが黄葉に染まる、ちょうど今頃のことだった。
 休日に暇を持て余していた茂は、銀杏通りを散策中に一軒のカフェーのドアを押した。
 チリン。
 銀色のドアベルが来客を知らせると、
「いらっしゃいませ」
 カウンターからエプロン姿の女主人が顔を見せた。
「ブレンドコーヒーを」
「はい、かしこまりました。お好きな席でお待ちください」
 女主人に勧められ、茂は店内を見回した。
 テーブル席にはサラリーマンらしい風体の男が一人と、談笑する老夫婦が一組ばかり。
 お世辞にも流行っているカフェーには見えなかった。
 茂は銀杏通りに面した窓際席に腰を下ろそうとしたところで、
 ――おや――
 窓際の片隅に若い女がいることに気付いた。
 女は観葉植物の陰に隠れるように、物憂げな表情でガラス窓から銀杏通りを眺めていた。
 女の年恰好は茂と同じくらい。目鼻立ちのすっきりした面長の美人だが、うら寂しい雰囲気を漂わせている。

 茂は、少しばかりの間、遠目に女の様子を窺っていた。
 吐息交じりにティーカップを手にする女の仕種からは人恋しさが滲み出ている。
 茂が、
 ――美人だな――
 と、思ったときだった。
 女は自分を見つめる視線に感付いたのか、不意に顔を上げた。茂と女の視線がパチンとぶつかる。
 茂は慌てて目を逸らそうとしたが、しかし、女の方は「お気になさらないで」とでも言いたそうに微笑を浮かべながら会釈を返した。
 女の微笑みに、茂は思い切って声をかけた。
「こんにちは」
「こんにちは」
「相席、いいですか?」
「どうぞ。おかけになって」
 茂が女の向かいに腰かけると、間もなくして注文したコーヒーが運ばれて来た。
「私、ここのカフェーがお気に入りなの。静かだし。通りの銀杏も素敵だわ」
「この銀杏通りは……」
 コーヒーを飲み終えるまでの間、二人は、まるで昔からの恋人だったかのように会話を弾ませた。

 やがて、女は会話の切れ目に席を立った。
「またお会いできますか?」
「私、良子です。また来週、きっとここでお待ちしていますわ」
「僕は茂です。それじゃあ、また」
 こうして、茂は、良子とデートを重ねるようになっていった。

 

 銀杏通りのカフェーに入り、茂はいつもと変わらず窓際の片隅に座った。
 まだ良子の姿は見当たらない。
 茂はコーヒーを頼み、上着の胸ポケットから煙草を取り出した。
 しばらく紫煙をくゆらせていると、ドアベルが鳴り、
「お待たせしてごめんなさい」
 と、良子が窓際席までやって来た。
「コーヒーでいいかな?」
「ええ」
 紺のマフラーを脱いだ良子が腰を落ち着けたところで、茂は改めてコーヒーを注文した。
 新しい煙草に火をつけた茂は、良子の指輪に目を止めた。
 指輪は交際一年目に茂が贈ったものであったが、ここ最近、良子の指に見られなかった。
 テーブルにコーヒーが並べられると、
「あの……」
 と、良子は話を切り出そうとしたが、上手く言葉が続かないのか、俯いたきり無言になってしまった。
 重く沈んだ空気の中、茂は煙草の灰を落としながら良子の話を待ち続けた。
 茂は窓の外に目を向けた。秋風に吹かれた銀杏の黄葉が一枚、二枚、くるくると宙を舞っている。

 ふと茂の頭に良子との思い出が蘇って来た。
 出会ったときのこと。銀杏並木を歩いたこと。湖へ旅行したこと。初めて口づけを交わしたときのこと。熱い抱擁を重ねた夜のこと。
 茂は銀杏通りを眺めながら、それらの思い出を一つずつ反芻した。
 三本目の煙草に手を伸ばしたとき、
「ごめんなさい……。さようなら……」
 良子は聞こえるか否かの小さな声で別れ言を告げると、コーヒーカップの横に指輪を残して茂の前から立ち去った。
 ――やっぱりな――
 茂は、不思議と、良子の謝罪を素直に受け入れることができた。良子からの電話に虫の知らせを感じたからだろうか。あるいは、自身すらも気付かぬうちに良子への愛情が冷めてしまっていたのかもしれない。
 茂はたっぷりと時間をかけタバコを吸い終えてからカフェーを後にした。
 銀杏通りを中程まで歩き、
 ――ああ、そうか――
 茂は頬を吹き抜けた秋風に、独り頷いて、ぽつりと呟いた。
「秋風が吹くからか」

 

                   


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