日曜待つよの掌編小説

入院患者

入院患者

 

 あなたはK大学付属病院の精神病科に入院している男性患者。
 一昨年前、会社の上司の嫌がらせから統合失調症を発症した。
 日毎に心身を憔悴させる一人息子を心配した両親は、あなたを連れてK大学付属病院を訪れた。
 あなたを診察した精神病医は、
「しばらく入院して様子を見てみましょう」
 と、手早く数枚のカルテを書き上げ、看護師に病室を手配させた。
 それ以来、あなたは精神病棟の一室で統合失調症の治療を受けている。
 病棟内での入院生活はひどく退屈で息苦しい。何をするにも医師や看護師の許可が必要で、テレビやラジオはもちろん、新聞だって自由に読むことができない。
 あなたは一日でも早く健康を回復させ退院したいと願っている。
 病室では、あなたの他に三人の男性患者が精神疾患を療養しているが、いずれ劣らぬ奇人変人ばかりである。
 あなたの真向いのベッドに寝起きしている老人患者は英国紳士を自称し、この病室を紳士社交クラブと信じ込んでいるらしい。
 薄緑色の病衣に、首元には蝶ネクタイに見立てた手拭いを結び、看護師が持ってきた新聞を読みふけり、
「今日のセイロンティーは格別だ」
 と、ティーカップに注がれた水道水を満足げにすすっている。
 その老齢紳士の右隣では茶色の丸縁眼鏡をかけた中年患者が手鏡を覗き込み、何ごとかを熱心に話しかけている。
 男の目には手鏡の中に誰か別人が見えているようで、

「こんなところでお会いするなんて、まったく奇遇ですなあ。ええ、ええ、覚えておりますとも。あのときの絶景といったら。もう二度とあんな光景はないでしょうなあ」
 と、まるで旧友に再会でもしたかのような口ぶりで手鏡に向けて相槌を打っている。
 あなたは二人の奇人患者に辟易しながら、すぐ隣のベッドで寝息を立てている胡麻塩頭の患者に目をやった。
 ベッドの中でモゾモゾと寝返りを打っている胡麻塩頭の男は、この病室に一番早くから入院している患者である。
 男は日がな一日何をするわけでもなく眠っていることが多いのだが、深夜、どうかすると重度の妄想に襲われるらしく、
「コー、コー、コアー」
 と、他の患者が寝ているにもかかわらず鶏の鳴き声を真似てバタバタと病室内を走り回ることがある。
 男の発作が始まると、すぐに看護師が駆けつけてくるのだが、注射を打っても薬を飲ませてみても、なかなか発作は収まらない。
 やっと男が落ち着く頃には、騒ぎのせいであなたの目はすっかり冴えてしまっている。迷惑千万なことこの上ない。
 ――こんな連中みたいになってしまったらどうしよう――
 奇人変人たちに囲まれているうちに、いつか自分自身も狂人に仲間入りを果たしてしまうのではないか。あるいは、すでに脳髄の中で狂気が蔓延し始めているのではないかと、胸の内に不安が込み上げてくる。
 あなたは少しでも早く精神病棟から抜け出そうと、毎日のように看護師に統合失調症の完治を主張しているのだが、
「まだ入院が必要ですから」
 と、誰もあなたの話に取り合ってくれない。
 病室には、決って週に一度、二人組で男女の医師があなたの面談にやってくる。
 二人とも担当医とは別の医師なのか、看護師から治療経過を聴き、二十分から三十分間ほど、あなたと面談する。

 面談は、ごく簡単な日常会話ばかりで難しいことは何もない。
 しかし、この面談があなたの病状回復の良し悪しを判断しているらしい。
 面談を終えた二人の医師が物憂げな表情で、「もうしばらく入院を……」
「まだ退院は……」
 と、看護師とともに小声で相談していたのを耳にしたことがある。
 あなたは次回の面談で二人の医師に心身の健康がすっかり回復していること。奇人変人たちとの入院生活が一層悪病を進行させるであろうことを伝え、退院を打診するつもりである。

 

 それから三日後の面談日。
 正午をたっぷりと過ぎてから二人の医師が現れた。
 看護師の案内で病室に入ってきた医師は、いつものようにあなたのベッド脇に並び立ち、
「具合はどう?」
 と、静かにあなたの肩に手を置いた。
「良好です。薬も毎日飲んでいます」
 あなたは女医の方に微笑んでみせる。
「食事は?」
「毎食食べています」
「睡眠の方は?」
「よく取れています。夢でうなされることもほとんどありません」
 二人の医師は、あなたの受け答えに頷き合っている。
 統合失調症を患ってからというもの、あなたは上司の幻覚や幻聴に悩まされ続けた。
 夢の中にまで上司が現れ、罵詈雑言を吐いていく。ひと時も心休まることはなかった。
 しかし、ここしばらく上司の悪夢や幻は見ていない。少なからず治療の効果が挙がっているのだろう。
「先生、もう幻覚や幻聴に悩まされることはありません。僕の病気は治りました。早く退院させてください」

 あなたは両手を握りしめ、二人の医師に訴えた。
「うむ……」
 男の医師は低い唸り声を漏らして口をつぐんだ。
「僕はすっかり健康になりました。いつまでもこんな病室にいたくありません。このまま奇妙奇天烈な患者と一緒にされていたら僕まで狂人になってしまいます」
「それは……」
「先生、どうか、早く退院の許可をください。お願いします」
 あなたは力なくうな垂れる。
 困惑する二人の医師を見かねたのか、看護師が脇から飲み薬を差し出した。
「薬の時間になりますから」
 と、看護師は医師たちに退室を促した。
「待ってください、先生、先生、後生ですから。僕はもう心身共に健康なんです。退院させてください。お願いです、お願いしますよ。後生ですよ、先生、先生」
 あなたの懇願を背に、二人の医師はわずかに肩を震わせながら病室を後にした。
「先生、先生……」
 あなたは病室のドアに向かい、か細い声で呟き続けた。きっと今度も退院の許可は下りないのだろう。
「治療を受けていれば退院できますから。頑張りましょうね」
 看護師に諭されてベッドに体を横たえた。

 まだしばらくは入院生活を続けなければならない。
 退院はずいぶん先のことになりそうだ。
 あなたには見舞いにやって来る両親が二人の医師に見えている。

 

                   


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