日曜待つよの掌編小説

隣の人

隣の人

 

 

 会社から帰宅した宏がリビングでネクタイを緩めていると、
「お隣さん、また喧嘩してたみたい」
 と、妻の幸恵がテーブルにサラダを並べながら言った。
「夫婦喧嘩なんてどこの家でもするだろ」
「ここ最近、しょっちゅうじゃないかしら」
「いろいろ事情があるんだよ」
 宏はさほど興味なさげにこたえた。
 結婚を機にこの土地にマイホームを購入し移り住んできたのが三年ほど前。もともと住んでいたわけではないから隣近所との人付き合いも希薄である。
 顔を合わせれば、こんにちはと挨拶を交わすぐらい。宏など日中は勤めに出ているものだからいまだに近所の住人の顔と名前を取り違えたりする。
 元来が人付き合いの好きな性質ではないから、自然、近所付き合いへの関心も今一つ芽生えない。
「あんまり人様の詮索をするもんじゃない」
「そうでしょうけど…」
 宏に戒められ幸恵は言葉を飲んだ。
 それから二、三か月たったある日のこと。
 営業先から帰った宏はリビングのテーブルに見事な紫陽花が飾られているのに気が付いた。
「お帰りなさい」

「うん。紫陽花、すごいな」
「ああ、それ、お隣の奥さんからいただいたの」
「へえ」
「毎年きれいに咲くのよね」
 幸恵は花瓶に活けられた青い紫陽花に目をやった。
「きっとよくお手入れしているんだわ」
「紫陽花なんて梅雨時期になれば咲くもんじゃないのか」
「ほったらかしにしていたら駄目よ」
「そういうもんか」
「そうよ」
 言われてみればと、宏の頭の片隅に去年のできごとが蘇ってきた。ちょうど今頃ぐらいのことである。
 休日の昼下がり、買い物に出かけていた宏はその帰り道、家の前で隣の夫人と出くわした。庭先で紫陽花をいじっていた夫人は宏の姿に感付くと、
「こんにちは」
 と、会釈した。
「こんにちは。ご精が出ますね」
「この時期の楽しみなものですから」

「お綺麗ですね」
「ありがとうございます」
「それだけ立派だと手入れも大変でしょう」
「趣味ですから」
 丹精込めた紫陽花を褒められ嬉しかったのだろう。
「主人には、花を咲かせる時間でパートに出た方がよっぽどいい、なんてよく文句を言われるんですよ」
 ほほほと、苦笑いしながら愚痴をこぼした。
「それは厳しい」
「園芸に無頓着な人なんです」
「ほう」
「本当は青い花を咲かせたいんですけれど、ここは赤い方ばかりみたいだから、今年こそってつい夢中になってしまって」
「育て方で花の色が変わりますか」
「ええ」
 宏は花卉に明るい方ではない。紫陽花に赤や青があるのは知っていたが、育て方次第で好きな色の花を咲かせられるとは初耳だった。
「土壌の酸性分によるんですよ。酸性なら青、アルカリ性なら赤い花が咲くんです」
「なるほど」

 夫人とのやり取りを思い起こしながら、今一度幸恵が活けた紫陽花を見ると、かすかに紫を帯びているものの深い青色の花をつけている。夫人の努力が実を結んだ証に違いない。
「いつだったかな、隣の奥さんが一生懸命に世話してたのを思い出したよ」
「やっぱり」
「園芸好きなんだな」
「私もやってみようかしら」
「お前は案外短気なところがあるから続かないな」
「何よ、もう」
 幸恵はわざとらしくそっぽを向いて見せた。背広を脱ぎ、夕刊をめくっていた宏は、
「あっ」
 と、手を止めた。
「どうしたの」
「今朝のニュース、犯人が捕まった」
「あの殺人事件でしょ。お昼にワイドショーで特集してたわ」
「ひどいな。犯人は遺体の隠滅を考えていたらしい」
「物騒ね」
「まったくだ」

 新聞によれば犯人の男は夫婦喧嘩の最中に激高して凶行に及んだらしい。無断欠勤を心配した妻の勤め先の友人らが警察に相談したことで事件が発覚し、ほどなくして夫が逮捕されるに至った。
 逮捕後の警察の調べで、夫は遺体隠滅のために特殊な化学薬品を秘密裏に入手していたことが判明した。
「その薬品っていうのが遺体を溶かす強酸性の薬なんですって」
 幸恵はワイドショーの知識を披露する。
 強酸性と聞き、宏は一体どうしてそのようなことを考えたのかわからないが、ふと隣家の紫陽花を想像した。
「紫陽花は土の成分が酸性だと青い花になるらしい」
「聞いたことある。不思議よね」
 宏はリビングのカーテンをわずかに開いて窓の外を眺めた。曇天の下、隣の庭先には鮮やかな青い紫陽花が咲き誇っている。
「お隣さん、まだ夫婦喧嘩してるのか?」
 幸恵を振り返り聞いてみた。
「もう喧嘩はしてないわよ」
「うん?」
「単身赴任でもしてるんじゃないかしら」
「そうなのか」
「私、言わなかったっけ」
 と、幸恵は小首をかしげた。

「お隣の奥さんがね、なんだか嬉しそうに話してくれたの。うちの主人、とても遠い所へ行ったのよって」

 

                                     


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