日曜待つよの掌編小説

隣家の女

隣家の女

 

 ベランダで洗濯物を取り込んでいた君子は、不意に視線を感じ、辺りを見回した。
 ――何かしら――
 平日の昼下がり。夫はまだ帰宅していない。家の中にいるのは君子ひとりである。
「気のせいかな」
 君子は首を傾げて洗濯籠を持ち上げた。
 部屋に入ろうとしたところで、
 ――あら――
 小道を一本挟んだ隣家の二階の窓辺に女が立っていることに気が付いた。
 濃い赤のセーターを着た女は君子をじっと見つめて微笑を浮かべている。
 君子が感じた視線は女が向けていたものらしい。
「こんにちは」
 と、君子は会釈してベランダから部屋に入った。
夕食時、君子は昼間見た女のことを夫に話して聞かせた。
「お隣、女の人もいたのね。知ってた?」
「いや、知らなかった」
「若い女の人だったわ」

「うん」
 夫はさほど興味がないらしい。君子の話に生返事で新聞を広げている。
 君子と夫がこの家を新築したのが一年ほど前のこと。
 当時、隣は空き家だったが、半年ほど前に青年が引っ越してきた。
「学生さんの一人暮らしだと思ってたわ」
「恋人が来てたんじゃないか」
「そうね」
 君子が女を見たのが初めてなのだから、女の方も今まで君子のことを知らなかったのかもしれない。
 この人がお隣さんなのね、などと思いながら君子を見つめていたのだろう。
「気にし過ぎだったかも」
「お前、変なところで心配性だからな」
 夫は少しばかりあきれた様子で新聞をめくっていた。

 

 翌日、君子は洗濯物を干しながらそっと隣家の窓を覗き見た。
 窓には白いカーテンが引かれていた。部屋の中の様子はわからない。
 わけもなく君子にはカーテンの向こう側に静かな笑みをたたえた女が立っているように思われた。
 ――考え過ぎね――
 君子は一つ溜め息をつくと、手早く洗濯物を干し終えた。

 

 二日後。雨続きの曇り空から日が差した。久しぶりの快晴である。
 籠いっぱいにたまった洗濯物を抱えた君子がベランダに出た時だった。
「あっ」
 目の端にちらりと赤いものが映り込んだ。
 君子が咄嗟に視線をやると、隣家の窓際に先日の女が立ち尽くしていた。
 女は赤のセーターの上に以前と同じ微かな笑顔を載せている。
 ――嫌だわ――
 君子には女の笑顔が無機的でどこか不気味に感じられた。
 軽く頭を下げてみたものの、女は何か返事をするわけでもなく君子を凝視している。
 君子は女の視線に耐えられず、洗濯物を半分も干し終わらぬうちに部屋まで引き込んでしまった。
 夫が帰宅するとすぐ、君子は女の苦情を訴えた。
「やっぱりおかしいわ」
「神経質過ぎる」
「だって、ずっと私を見ているのよ」
「寝癖でもついていたんだろう」
「違うわ」

「うん……」
 君子の剣幕に夫は言葉を詰まらせた。
「きっと私を馬鹿にしているのよ」
「あまり近所迷惑を起こすなよ」
「文句を言ってやるわ」
 君子は乱暴にリビングのドアを閉めた。

 

 翌朝のこと。
 君子が玄関先の掃き掃除をしていると、隣家の青年に出くわした。
「おはようございます」
 青年の挨拶に、
「ちょっと」
 君子は眉を上げた。
「あなたの恋人ね、あんまり失礼じゃないかしら」
「はあ……」
 青年は君子の声音にいくらか面食らった様子で立ち止まった。
「人のことをじろじろ眺めて悪ふざけしているのよ。あなたからいたずらをやめるよう言っていただけるかしら」
「恋人? いたずら?」
 青年は君子が何を言っているのかわからないらしい。君子の言葉を繰り返した。
「あなたの家に恋人がいるでしょ。赤いセーターの。あの人、私がベランダに出ると嫌がらせをするのよ」
「あっ」
 君子の口ぶりに、青年は思い当たる節があったのか声を漏らした。
「わかったの。よく注意してちょうだいね」

「ご面倒をおかけしました」
 と、青年は深々と謝罪した。
「あれ僕の卒業制作です。トロンプ・ルイユが題材で……」

 

                   


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